2008年9月22日月曜日

結束信二「新選組血風録」シナリオ集

「新選組血風録」シナリオ集

先だって、
テレビ映画「新選組血風録」の世界について、
一人で熱く絶叫の紹介文をチラッと掲載しましたら、
ブログコメント、メールともに
思いがけない反響をいただきまして、
これは結束の神がかりな仕事ぶりを、もっと伝導せねばと思い、
本日はこの一冊を、強力に推すものであります。

リアルタイムオールドファンの皆様には、
「何を今更」
な記事がつづきますが、御免ください。

去年、時代劇専門チャンネルにて放送された
新選組血風録」をご覧の皆様、
また、同作品をDVDでお持ちの皆様に、オススメです。

さらに、
俳優さんよりも結束信二先生への
ご興味の方が強い方には特にご推奨!

この本の本質は、
鑑賞の手引きなどという範囲を遥かに超越し、
また
「脚本としてどう書いてあったか」を検証するまでもなく、

いかに「映像が脚本に忠実であり、
いかに我々視聴者が、おおむね
脚本のとおりに映像を感じ取れているか、
確認できる醍醐味に尽きると言わねばなりますまい。

お気に入りの回だけ、つまみ食い的に読むもよし、
繰り返し読み返して、紙面から映像が立ちのぼるような
錯覚を味わうもよし、

まるごと結束信二 の一冊という意味では、
テレビ映画「新選組血風録」の世界』よりも、
結束マニア向けと言えるかもしれません。

全26話のうち
 虎徹という名の剣
 菊一文字
 海仙寺党全滅(→過去の熱血レビュゥを読む
 鴨千鳥
 脱走
 紅花緒
 あかね雲(→過去の熱血レビュゥを読む
 風去りぬ
 燃える命
の9作品を収録。

私事ですが、イチオシはやはり
左右田一平さんの魅力全開!な
「海仙寺党全滅」
「あかね雲」
の2作品です。(紅花緒も捨てがたい。)

熱血レビューを書いている時は、
結束神脚本の単なる焼き直しに堕さぬよう、
念のため読み返しは自粛していましたが、

まさに、映像から感じ取った「こんな気持ち」を、
打てば響くような、簡潔で適切で明瞭な日本語で
表現されているのを読むとき、

まるで結束先生と対話し、
拙い己の鑑賞を、
「それもアリ」と、肯定していただけた
かのような満足感と、充足感を満喫できる
一冊と言えましょう。

この確信は、巻末の、上月信二氏の
「結束信二の脚本は行間から映像がうかぶ」(216ページ参照)の記述においても、高らかに証明されます。

文字で記されている部分はもちろん、
行間!
行間すらも読者や視聴者に訴えてくる
この結束パワー
まさに、20世紀に選ばれし脚本家としか思えません。

なお、結束ファンとして惜しむらくは、「慶応四年新選組」が、
ドラマ化されていないこと。

この感想は、また後日に譲りますが、これはどちらかというと
雰囲気的には「燃えよ剣」よりも「新選組血風録」の
イメージが重なるような気がしてなりません。


さて用心棒シリーズも、ついに最終章:4thシーズン間近。
もちろん自力で録画しちゃいるけど、
これしきの個人的問題解決で満足すべき事柄ではない。

もっと巷に、結束ドラマの普及を!!
DVD出してくれー!

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「新選組血風録」シナリオ集
慶応四年新選組
テレビ映画「新選組血風録」の世界一人で熱く絶叫の紹介文

2008年9月17日水曜日

帰って来た用心棒 第二十七話・第二十八話

天地正大流 節分メニュー かち栗。
節分と勝ち栗について述べる万平旦那

万平旦那の語りにちなみ、
豆撒きや、いわし、「お化け」その他節分の習慣については
→wikipedia 節分 にも列記されている。

また、尚古の心厚きおのおのがたならば、
「徒然草」の一節
「追儺より四方拝に続くこそ面白けれ」を思い起こされ、
wikipedia「追儺」(ついな)
節分の祭礼の一環としての豆撒きの習慣は比較的新しいことに、
既にお気づきであろう。節分の薀蓄は以上である。

さて
第二十七話「都に来た娘」
第二十八話「鬼と福との巷」

このふたつについては、特にメッセージ性を感じており、
是非とも比較しながら鑑賞したいと思っていました、
その念願を今、ネットの隅で、また一ページ。


___「都に来た娘」____「鬼と福の巷」

______一月?(季  節)2月上旬、節分の日
________娘(ヒロイン)若い女
_京の兄を頼って。(上洛理由)駆け落ちの途中
讃岐出身。奉公人。(生い立ち)元料理屋の娘。のちヤクザの女。
___おそらく地味(生活ぶり)おそらく派手好き?
恩人。ほのかな思慕(田島とは)早速に片恋?
__絹問屋・住吉屋(就 職 )居酒屋
____田島→青木(コ ネ )千造・十吉?
_自ら進んで訪ねる(その後の田島)店には行かないと明言
ひたすらに兄を待つ(将来の見通し)板前と駆け落ち


どちらの女が、どうだというわけではなく、
人生の展開の要因のひとつには、
生まれ持っての性質というものと、あるいはそれに関連し、
あるいは無関係に「運」も関わるものかと、
思い知らされる二話。

ふたりとも、田島次郎に急場を助けられるという
巡りあわせを得ながら、その運を幸運に
つなげることができなかったと見てよかろう。

地味で一途な妹を好む視聴者も居られよう、
多情な女を好む視聴者も居られよう。

妹の、辛気臭い融通の利かなさに苛立つ視聴者も居れば、
ほとんど美貌のみを恃むかのような女の軽薄さに
苛立つ視聴者も居よう。

京にしっかりと生活基盤を持った、
堅実さを評価すべきか
今生では兄に会えない事実を知らない運命を
哀れむべきか

女を磨いて武器とし、思い切りのよい人生を
選択する積極性を評価すべきか
駆け落ちを繰り返す、
刹那的な無計画さを哀れむべきか。

同時に、
我々視聴者自身も、ほんの少しの善性と、
哀れむべき欠点を抱えつつ生きていることを
抉り出される。

毎回のことながら、
結束ドラマは、気づかない間に間合いを詰めて、
人間の本質へズバリと斬り込んでくる。
まさに、剣より強いペン


この二話は、全く違う話のはずが、
異なるメロディーラインを歌いながらも、
まるで二重唱のようにぴったりと符合して
ひとつの物語を語っているかのようだ。

そして、
田島次郎が、それぞれの女に言って聞かせた言葉

「世の中って、一ついいことがあると、続いていいことがある」(27話)
「だから、きっと会える」(27話)
「死ねば、何でも済むと思っているのか?!」(28話)
は、
結束先生が世の中へ伝えたかった言葉のうち、
最重要ともいえるキーワードに思えます。

なお、品田万平ファンサービスのサイドストーリーは、
日本一美味い(かどうかは誰も知らない)鯛めし→刺身(27話)

戦国武将のララバイ・・・なのか?

信長様ー、今朝は厠が長うございますがぁー・・・
 (古っ!!)が歌える方は、数少ない我が同輩!

以下、珍しく戦国シャウトです。


2008年9月16日火曜日

帰って来た用心棒 第二十六話 狂気の夜

平然と毒物を飲み下す万平旦那
毒物を飲み下す万平旦那 ヒー

細かいところまで演技の手を抜かない
左右田一平さん。

左目尻の深い皺をご覧あれ!

湯飲みと手で、顔がほとんど隠れちゃうのに、
ほんの数秒うつるこの皺だけで、
毒を飲まされているシリアスな状況がアリアリ。
グッジョブ。

前日に予告されていたので、初見の日は、もー、
万平ファンは冒頭からハラハラの巻です。

しかし、さすがは万平旦那
天地正大流リスクマネジメント術 全開!
番所訪問から不審な男確保まで、品田万平
実に4分30秒の独壇場

万平旦那、さすがだ! としか言えん。
番所の戸を閉めてから、ただの時間稼ぎの応酬と思いきや、
冷静に短銃を観察し、連発式ではないことを
看破した上での、計算済みの対応。


想定外かつ、不利な状況からの一発逆転。
毎回、天地正大流には学ぶべき点が多い。

実は、皆様お気づきのとおり、この回は、
前日の予告編のナレーションで
既に充分に語り尽くされている。

「狂気の沙汰が夜の京都を巻き込み、
 なぜ人が殺されていくのか、誰も分からない。
 ただ大勢の人が意味もなく、その命を奪われていく。

 闇を裂いて轟く銃声、
 浪人は殺気を漲らせて走り、
 田島次郎は怒りを迸り、
 品田万平は平然と毒物を飲み下す。

 無頼の男たちは誇らしげに、狂気の夜を売り渡そうと企む。

 街の片隅に女たちだけの小さな宴が開かれるとき、
 その夫たちは恐怖のどん底に落ち込む。

 幕末非情の夜が明けた時、持ち主を失った一つの包みが
 虚しく引き取り人を待っている。」


この、狂気のテロの一話を、実によく物語っている上に、
実は今もどこかで同様の事件が起きているに違いない、
恐ろしい確信が背中合わせに迫ってきます。

このナレーション、人名や一部を除けば、
ニュースとして報道されていても不思議はない。
「フィクションです」と、言い切れない。

三人の浪人の会話が、この状況を端的に物語る。
田島次郎「まるで人殺しの意味が分からない」
謎の浪人「意味はある。大勢殺したと言うことだ」
品田万平「何だか知らんが、狂気の沙汰としか思えん」


せめて品田万平の飄々ぶりと、
青木・千造・十吉とその女房達のコミカルさに、
そっとくるんで、お茶の間に届けてくれたのは、
結束先生の慈悲とも思える。

我々弱い人間は、いくら時代が下ろうとも、
狂気に転落する危うさを永久に孕み続けるであろうことを、
静かに示されているような、怖い一話です。

サイドストーリーの、女たちの宴会、
ラストで夫達のもとへ駆けつけさせ、
その無事な姿を見せて、視聴者とともに
安堵を分かち合うための伏線だったかと、

いつもながら、巧妙な結束の罠に嵌められた。

不気味なほどの深さとともに、技あり、
いや、一本でしょう。一本!!

2008年9月11日木曜日

『テレビ映画「新選組血風録」の世界』

燃料キタ━(゚∀゚)━!!

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テレビ映画「新選組血風録」の世界
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リアルタイムオールドファンの皆様がたには
「何を今更」感バリバリと思いますが、

大昔ーーーに、
結束版「新選組血風録」との
縁結びをしてくれた旧友に、
最近このブログやサイトのことをコクり、
旧交をあたためたところ、

しばしば、
左右田一平さんの逸話についてのニュースソースを
渇望
しておりますワタクシを見かねて(?)
この本を送ってきてくれたのでした。

ただいま満喫中。唐宋八大家はチョットお休み。

もちろん存在は知っていたのですが、
「でもぉ、結束先生の書き下ろしはないって噂だし」
シナリオ集はもってるしなぁ」
という、で見てました
 えらいすんまへん。

冒頭から、 ヲタ  ファン好みの
「全26話一覧表」(放映日・サブタイ・監督・ゲスト俳優)
って、もうだめだー!見透かされている!

ずっと気になっていた、島田順司さんと上月Pの出会いに
左右田一平さんが一役かっていた事実も、
上月P自身の筆でさっそく語られており(12ページ参照)
スッキリしたうえに、
まるでその運命の瞬間が見えるようでホンワカー。

それから、ご来訪者様から聞き知っていた
撮影当時「左右田さんは実生活でもマメ」だった証言も、
左右田さんみずからの談話で証明されている。

撮影中の記録的写真もちらほら載っており、
ファン魂をこコチョコチョコチョとくすぐられる。
ナベタケさんの談話まで載ってるとは!

ハッツ。
これは。
結束先生の逝去後の本だというのに、
しっかり結束の罠

お葬儀のときの、
小田部通麿さんのエピソード(177ページ参照)には
なんだか涙ぐんでしまいました。
今度京都いったら、「誠心寺」かならず参詣だ。

この本を読んで、改めてまた少しわかった。
結束脚本の、卓越したヒューマニズムで我々に
迫ってくるあのパワーは、結束先生の筆の力だけではなく、

この作品に関わった、俳優・スタッフ皆さんの
縁のパワーが二乗三乗の効果を挙げているのだと。

結束脚本を中心に、一丸となった結束組のパワー。
今後も、しかと受け止めていかねば。
��でもでも、深すぎてなかなか究めきれないが)

結束ドラマファン必携!『テレビ映画「新選組血風録』の世界

結束信二「新選組血風録」シナリオ集

2008年9月9日火曜日

帰ってきた用心棒 第二十四話 春のともしび

燃料キタ━(゚∀゚)━!
我らが品田万平、貴重な天地正大流剣術シーン!
品田万平、寒稽古
でも、早暁の神社の薄暗がりに保護色のように溶け込んでよく見えん。

剣を手にする機会があっても、
「どうせ鈍らだな」と、徹底して素手勝負の万平旦那
稽古は別。


今日の舞台は、
御菓子司・皆様ご存知 鶴屋吉信

なぜ数ある菓子屋から、鶴屋吉信が選ばれたのか、
チョット知りたい。

ロケはありえないことを承知の上で、「西陣 舟橋」
現在の鶴屋今出川本店の位置もチェック。

菓子屋の場所がよかったからか?
トレードマークが、よく知られていて、しかも絵になって
いい感じだからか?

ヲタ心で、ちょっと鶴屋吉信のサイトをチェックに行くと、
嘉永7年(1854)

京都所司代認可の上菓子屋仲間に所属。
この辺の↑ポジションが、
ご番所との距離感がちょうど良さそうだったのか。

どれも決め手に欠けるところ、「京都所司代認可の上菓子」
ぐぐってみると、その流れを継承して現在に至る
「菓匠会」21店舗を発見。(リンク要承認のため、Google経由)

いずれも優れた上菓子屋とお見受けするが、
なかでも津々浦々のお茶の間にもおなじみな、鶴屋吉信が
自然に選ばれたというのが、素直な捉えかたかもしれない。

さらに鶴屋沿革によれば、
柚餅を売り出したのは明治初年となっており、
看板に関しては時代的には合わないことになりそうだが、

奈良の古梅園の件と同様に、
多分「柚餅」の看板を似せて作り、
おなじみ感を出したかったという狙いと見る方が
正解かもしれない。
それとも、この回、スポンサーについてくれたか、と、うがってみる。

鶴屋薀蓄は以上。


さて、某神社にて早朝寒稽古4日目の、
天地正大流品田万平と、田島次郎
おなじく熱心に神社にかよい、灯篭を写生する
若い町人を目撃。

町人は、上菓子屋・鶴屋吉信の若い職人。
数時間経過後、洛中で、浪士に因縁つけられて
袋叩きに遭わんとする棒手ふりの爺さんを、
見てみぬ振りできずに庇って、浪士どもに反抗。

ここで、いつもなら、
「待てぃ」
と、黒尽くめのカッチョエエ浪人が現れるところなのに、
意味ありげに見ているのは、山崎さんもとい
坂口さん扮する無頼の浪人。

現場に千造十吉が到着して、事態の収拾にあたるも、
浪士どもは収まらない。かえって鼻息荒し。
職人も、悪いのは浪士どもの方だと、折れない。

結局、病床の鶴屋の主人にかわり、
おかみが番頭を連れて、浪士どもに詫びを入れに
いくことになる。

実に、大店のおかみにふさわしい器の大きさと優しさ、
青木の旦那から経緯を聞いた上は、若者に非はないと判断し、
若者は連れて行かない。

しかし、浪士どもは慰謝料だけでは飽き足らず、
おかみに危機が迫るとき、ようやく用心棒の旦那登場。

虎口を脱したおかみは、後刻
棒手ふりの爺さんとその娘の訪問を受け、
職人には、娘から感謝の綿入れ。

寒稽古5日目。
早起きして神社へ熱くランニング!の品田田島と、
同じく一人早起きしている鶴屋の職人。

神社の境内で、また顔を合わせた三人は、
この日初めて会話を持つ。

地位や職業が違っても、
若い田島くんと、若い職人、目指すものは、おそらく一緒。
「究めたい」
二人とも、なんと清清しいことか。
天もご照覧あれ。

ほのぼのと、しかもいい感じで流れていくドラマが、
結束ファンには、嵐の前の静けさの直感と確信が辛い。

再び現れた山崎さんもとい浪人に、
見込まれてスカウトされかかる若い職人。

甘言を弄され、酒を飲まされ、両刀をあてがわれ、
見かけだけの栄達に目が眩みかけたその時、

若い職人の脳裏に、ずっと考えていた、
菓子のアイディアが閃き、
勇を鼓して、浪士どもの企みに加担することを拒否。

偶然、同じ場所で呑んでいた用心棒の旦那
品田田島の加勢を得るも、あえなく落命。

今日もキた、お家芸の結束ビターエンド

しかし、
実現こそしなかったけれど、
この若い菓子職人は、地道な努力の果てに、確かに、
何かを掴み取ったのだと、匠の誉れを称えたい気持ちです。

そして、このとき悪の誘惑に負け、
万が一命があって後日実現したとしても、
それは、
真に春のともしびのような、
うるわしい菓子になったであろうか。

さらには、
職人でありしかもクリエイターであろうとする、
一徹の果ての閃きが、道を踏み外す所業から、
若者を遠ざけたともいえる。

この菓子が、どんな菓子になるのか、
この若い菓子職人以外、誰も知らない のも、
いつもながら実にすばらしい。秘すれば花の結束脚本


先輩職人の言う
「世の中はな、お前が思うほど甘いもんと違うわ」
も事実ながら、
正しいことを正しいと言えないのも、
本来はおかしい。

そして、この頑固なまでに一徹な若者にとっては、
棒手ふりの爺さんを救うことは
善行などという徳に値する大層なことですらなく、
当然の道理だとでもいうべき、気概と真っ白さが眩しい。

結束先生は、こういう一途な若者を描くのが本当にウマい。
青臭いかもしれないが、この一途さを、
世慣れぬ愚か者と、切り捨てるには誠に惜しい。

そんな中で、
爺さん親娘のまごころと、頑固ながら一途な若い職人を、
暖かく見守り、ねぎらうおかみの台詞や物腰が、
まさに、春のともしびのような救いに満ちて、
いちいちすばらしい。

勝手にMVPは、鳳八千代さんへ。

なんてことない毎日に感謝して、悔いなく。
これは、いつも結束ドラマの根底に感じる
メッセージのひとつですが、

義を見てせざるなかりしか。
努力に憾みなかりしか。
そして
不精に亘るなかりしか。
弱い己の怠け心に活を入れられました。

一心に、新しいアイディアを追い求め、
自主的に粘り強くとりくむ、若い菓子職人の姿に、
「今、汝がせずに、誰がするというのだ?」
と、問われている気がしました。

職人自身にしかできない「春のともしび」の菓子。
自分自身で掴み取る、自分が真に求める境地。
「人生とは」を
また、結束ビターエンドで見せてもらいました。

毎度の事ながら、うまくいえないのですが、
いわば、法然入宋の折の、椎茸の逸話の示すごときものか。

結束先生はどうも、この境地の一端について、
若い職人の口を借りて、品田万平を通して我ら視聴者に
語ったと考えられなくもない。

いま我為さずして、誰がする。


ちなみに、現在、品田さんたちの住む町屋には、
炊飯教室できるぐらいの米はあるらしい。
��いつぞや、田島くんは火を引くのが早すぎると言われていた。)
にしては、外食もしている。
「家で朝食」派?


ところで++++++++++++++++

実は、先日結束の罠にまんまと堕ち、
『唐宋八大家文読本』に嵌っております。

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唐宋八大家文読本
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以下、マニアックですみませんです。

まだ、韓愈の巻で、ほんのさわりですが、
韓愈『雑説四』なんて、
うわ、これ、高校の漢文の教科書に載ってたよ!と、
思い出すほどの、印象的かつ鮮やかな文章。

ヤバイですよ、特に漢籍好きにとっては。
「四書五経は標準装備の読者対象」という感じの
手ごわさ、つまりハイレヴェルさといい、

いたずらに美文を弄する風潮への
アンチテーゼも伴って編集されたといいながらも、
どの文章も一文字、一文字に、
しっかり人を惹きつける力強さと、技巧と推敲の跡が感じられる。

wkipedia「唐宋八大家」によれば、日本では、主に内容重視で、
文章の芸術的鑑賞は取り上げられないことが多かったと
いうことだが、

とにかく、
書き記して遺すことも大好きな中華民族、
歴史的に膨大な量の著述が、どんどん平積みされて
まるで地層化していく中で、

埋没せずにつねにロングセラー、トップセラーであるには、
内容が優れているのみならず、
文章も、磨きぬかれたものでなければ
かなわないはず。

『唐宋八大家』
、きっと、今でも中国の知識人の常識であり、
かつまた「声に出して読みたい中国古典」なのだろうと、
推察します。

おそらく江戸期武家階級のたしなみであろう、
この本の題名が、漢学者でもないというのに、
いとも簡単にするっと出てくるところが、
結束信二の神たる所以。


それとも、
戦前漢学教育のレベルの高さを物語る具体例とみるべきか。