万平旦那の語りにちなみ、
豆撒きや、いわし、「お化け」その他節分の習慣については
→wikipedia 節分 にも列記されている。
また、尚古の心厚きおのおのがたならば、
「徒然草」の一節
「追儺より四方拝に続くこそ面白けれ」を思い起こされ、
→wikipedia「追儺」(ついな)
節分の祭礼の一環としての豆撒きの習慣は比較的新しいことに、
既にお気づきであろう。節分の薀蓄は以上である。
さて
第二十七話「都に来た娘」
第二十八話「鬼と福との巷」
このふたつについては、特にメッセージ性を感じており、
是非とも比較しながら鑑賞したいと思っていました、
その念願を今、ネットの隅で、また一ページ。
___「都に来た娘」____「鬼と福の巷」
______一月?(季 節)2月上旬、節分の日
________娘(ヒロイン)若い女
_京の兄を頼って。(上洛理由)駆け落ちの途中
讃岐出身。奉公人。(生い立ち)元料理屋の娘。のちヤクザの女。
___おそらく地味(生活ぶり)おそらく派手好き?
恩人。ほのかな思慕(田島とは)早速に片恋?
__絹問屋・住吉屋(就 職 )居酒屋
____田島→青木(コ ネ )千造・十吉?
_自ら進んで訪ねる(その後の田島)店には行かないと明言
ひたすらに兄を待つ(将来の見通し)板前と駆け落ち
どちらの女が、どうだというわけではなく、
人生の展開の要因のひとつには、
生まれ持っての性質というものと、あるいはそれに関連し、
あるいは無関係に「運」も関わるものかと、
思い知らされる二話。
ふたりとも、田島次郎に急場を助けられるという
巡りあわせを得ながら、その運を幸運に
つなげることができなかったと見てよかろう。
地味で一途な妹を好む視聴者も居られよう、
多情な女を好む視聴者も居られよう。
妹の、辛気臭い融通の利かなさに苛立つ視聴者も居れば、
ほとんど美貌のみを恃むかのような女の軽薄さに
苛立つ視聴者も居よう。
京にしっかりと生活基盤を持った、
堅実さを評価すべきか
今生では兄に会えない事実を知らない運命を
哀れむべきか
女を磨いて武器とし、思い切りのよい人生を
選択する積極性を評価すべきか
駆け落ちを繰り返す、
刹那的な無計画さを哀れむべきか。
同時に、
我々視聴者自身も、ほんの少しの善性と、
哀れむべき欠点を抱えつつ生きていることを
抉り出される。
毎回のことながら、
結束ドラマは、気づかない間に間合いを詰めて、
人間の本質へズバリと斬り込んでくる。
まさに、剣より強いペン。
この二話は、全く違う話のはずが、
異なるメロディーラインを歌いながらも、
まるで二重唱のようにぴったりと符合して
ひとつの物語を語っているかのようだ。
そして、
田島次郎が、それぞれの女に言って聞かせた言葉
「世の中って、一ついいことがあると、続いていいことがある」(27話)
「だから、きっと会える」(27話)
「死ねば、何でも済むと思っているのか?!」(28話)
は、
結束先生が世の中へ伝えたかった言葉のうち、
最重要ともいえるキーワードに思えます。
なお、品田万平ファンサービスのサイドストーリーは、
日本一美味い(かどうかは誰も知らない)鯛めし→刺身(27話)
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